脚本家 大石 静さん

『ふたりっ子』『オードリー』『功名が辻』など国民的人気ドラマを手がけてきた脚本家の大石静さん。ひとりで劇場に通った高校時代。周囲と調子を合わせつつも、自分という存在を見つめ続けた大学時代。
そして、20代でがんを患い、克服後、劇団を旗揚げし、脚本家への道を切り拓くまでの道のりをユーモアをたっぷり交えて語ってくださいました。

高校時代からひとりでアングラ演劇を観に行った

大石さんはどのような高校時代をお過ごしだったんですか?

大石静さん(以下 大石)

ひとりで芝居を観に行くような高校生でした。しかも、まわりの友達はほとんど知らないアングラ演劇。当時は、新宿の公園や映画館の終演後などに、様々なアングラ劇団が活動していました。唐十郎さんの「紅テント」、佐藤信さんの「黒テント」などです。ロックミュージックやサイケデリックアートにも象徴されるように、既成の価値観をぶっ壊すパワーにあふれた演劇でした。

刺激的な高校時代ですね……。当時、社会全体ではどのようなことが起こっていたんですか?

大石

高校2年生のときが70年安保の年で、東京・御茶ノ水で生まれ育った私は、有名な東大安田講堂事件をリアルに見ていました。大学がバリケード封鎖され、毎日のように学生と機動隊が市街戦のような衝突を繰り返していました。今の方には想像もできないと思います。我が家の庭に倒れていた血だらけの学生を助けたりもしていましたよ(笑)。全共闘世代と呼ばれる、皆さんのご両親よりひと世代上の世代を中心とした社会運動で、見方によってはヒステリックな時代でもありましたが、若者が先頭を切って権力に立ち向かい、世の中を変えようとしていたことは忘れがたいですね。ここに私のルーツの一端があるのは間違いないです。

それでは、高校のクラスでも異彩を放つ存在だったのでは?

大石

いえいえ、クラスでは「明るく元気な高校生」を自己演出していました(笑)。その当時は脚本家になりたいという夢もまったくなくて、まわりの友達と彼氏の話ばかりしていました。附属の小学校から大学までエスカレーター式に進学したので、受験で悩むこともなく、ヌルい高校生でしたね。

就職していく仲間を見て真剣に将来と向き合った

では、大学時代から芝居のほうに傾倒していかれたんですか?


大石

それがそうでもなくて、大学時代も表向きは「青い空と白い雲」が似合いそうな彼氏とつき合っていて、彼のことばかり考えてました。バリケード封鎖される大学がある傍らで、女子大のキャンパス内はのどかなものでした。ただ、ひとりで映画や演劇を観に行く生活は続けていました。当時は、つかこうへいさんや蜷川幸雄さんの芝居が好きでした。

大学のお友達を誘ったりはしなかったんですね。

大石

それはないです。「人間は孤独。信じるものは自分だけ」という感覚がどこかにあって、まわりとは普通に仲良くしていましたが、自分にとって本当に大切なものが簡単に他人と共有できるとは考えていませんでした。今思えば、この頃が自己分析の時代だったのかもしれません。うまく表現できない激しい何かが自分の中に芽生え始めたんだと思います。

そんな中で、大石さんもまわりと同じように就職活動をなさったんですか?

大石

いえ、していないです。むしろ「明日、何着ていこう?」みたいな話ばかりしていた仲間が手のひらを返したように将来の夢を語り始め、テレビ局や出版社の内定を決めていく姿を見て、愕然としていましたね(笑)。それから自分は何をしたいんだろうと真剣に将来と向き合いました。そして、たどり着いたのが「芝居が好 き」ということ。それで「役者になろう」 と決心しました。