映画監督 三島 有紀子さん

2012年に公開された映画『しあわせのパン』で多くの人に静かな感動を与えた三島有紀子監督。大学時代から自主映画制作に没頭し、卒業後はNHKでドキュメンタリー番組のディレクターを担当。11年の勤務後、「本当に自分が伝えたいもの」を追求し、映画監督として独立、現在に至る。
「映画をつくりたい」という夢を持ち続けた学生時代のエピソードを聞いてみた。

幼い頃に観た映画に衝撃を受け、映画への道を意識するように

多感な高校時代、三島さんはどのような毎日を送っていましたか?

三島有紀子さん(以下 三島)

絶対この質問 をされると思って考えていたのですが、記憶にあるのは、よく妄想していたことです(笑)。昔から、人と人との関係性にすごく興味があって。クラスメイト同士がもし付き合うとしたら、どんなシチュエーションで好きになるだろう、とか。冬の夕暮れの坂道で、制服の上着をかけてくれた瞬間だな…みたいな感じで、かなり具体的なシーンを妄想していました。

その妄想の日々が映画監督 三島有紀子の原点だったと?

三島

そうかもしれません(笑)。ただ私が通っていた高校が、文化祭で全校を上げて演劇の発表をするようなところで、クラスごとに半年かけて台本から上演までをつくり上げるんです。妄想は台本づくりのイメー ジトレーニングのようなものだったかも。

ユニークな高校生活ですね。やはり、 高校時代から役割は監督一筋でしたか?

三島

ところがそうでもなくて。高校1年の時は小道具係で、2年ではサブ演出の担当だったんです。3年になって、やっと脚本と演出を担うことに。

その時期から映画監督になりたいという夢が明確になってきたのですか?


三島

確か高校2年の夏、部活の練習帰り に、当時のボーイフレンドとこんな会話を したんです。
「将来、何になりたいん?」
「映画監督になりたいと思うてる」
「ええやん」
「え?」
「好きな映画つくれるんやろ? ええやん」
今思えば、初めて背中を押してくれたの は、彼でした。すごく感謝しています。

それが初めての宣言だったんですね?

三島

それ以前に、家族には「映画を撮り たい!」って宣言したことはあるんですが、「アホか」と大笑いされましたね。大正生まれの厳格な父親と10歳離れた兄がいる家庭だったので、映画監督といえば黒澤明、小津安二郎、今村昌平と、巨匠と呼ばれる人たちばかり。監督になれるわけがない、と一蹴されました。

そそもそも「映画」という存在を意識したのはいつ頃からでしたか?

三島

4歳の頃、大阪北新地の実家近くにあった名画座で、父親と観た『赤い靴』というイギリス映画がとても衝撃的でした。アンデルセン童話を原作としたバレエ映画で、バレリーナの主人公が愛する夫とバレエの道との間で迷い、最終的に自殺してしまうというストーリーでした。とにかく、自ら死を選ぶ人生があると知って、眠れなくなりました。あんなに美しい時間を一瞬にして無くしてしまう訳です。人間の複雑さを知りました。

当時、4歳ですよね? ものすごく大人びた子どもだったんですね。

三島

そうなんですかね? 4歳の子どもをこの映画に連れて行った父親の意図は図りかねますが(笑)。その後、私は『赤い靴』の衝撃が忘れられなくて、バレエを習い始めたんです。バレエのレッスンに通って、帰りに名画座で古い映画を観るという生活が、それから約10年続きました。

どのような映画を観ていたのですか?

三島

デビッド・リーンやフランソワ・トリュフォー監督の作品が好きでしたね。もちろんチャップリンの映画で大笑いしたり、スピルバーグ監督の『E.T.』や『レイダース』にも大興奮していました。映画監督という職業を意識したのは14歳のとき。バレエを10年続けて、トウシューズも履けるようになってソロで踊れた日、帰りに『風と共に去りぬ』を観て、突然「私がやりたいのはバレエじゃない、映画だ!」って思ったんです。4歳の時に『赤い靴』から受けた衝撃は、バレエではなく、映画への強いインパクトだったんだと、気づいたんですよ。